Coccoのポロメリア

この世界で一番好きな曲はCoccoのポロメリアだ

この曲を聴いている間に脳裏に浮かぶ映像の綺麗さは筆舌に尽くせない。誰もいない青空の丘の上に据えられたブランコが揺れていて、それが揺りかごに変わり、幼子を抱える母親の眼差しが少女時代に帰っていって、瞼が閉じる感じ。

過ぎていった日への憧れとは、諦めなのだ。何かをあきらめることってうつくしい

 

夕焼けのニュース

自分が男であるとか女であるとか、日本人であるとか、そういう感覚が無い。国籍、性別、地位なんかは自分の自信とダイレクトにつながっていて、それが生命力に繋がっていることまではなんとなくわかるけど。(それは周りのエネルギッシュな人を見てみたらいい。)困るのはこの世界はそういう生命力を他人の前である程度着飾らなきゃいけなくて、これが本当に面倒くさいと感じる。なんで人と会話するときに表面意識を作らないといけないの?ひどいよ。

この世界で生きやすいタイプの人は、世界をファッションショー的に見ている人だと思う。自分の性的魅力を高めることに関心がある人は、この世界は楽しいのかもしれない。私が知っている人は、ニュース番組を見ている時でもアナウンサーのスーツやネクタイばかり見ていて、とにかく人に服を着せたくて仕方がないようだった。映画「ショーシャンクの空に」で「更生、という言葉は、ある特定の人たちに背広を着せるための言葉だ」というセリフがあった。ニュースはひとがスーツを着たい、という夢を叶えるための集合的な舞台なんじゃないだろうか。なんでこれに参加しなきゃいけないんだろう

ある民族の人は共同意識が強くて「この中に悪い人はいますか?」という質問に「私たちの民族の中には悪人はいない!」と答えるらしい。これが、はだかのつきあいなのだろうか。うーん、わからない。UFOが来ても地球が次元上昇しても、この悩みは変わらない気がする。場所的なわたしがいること。それがえいえんの謎なのだ

童心

雨が降っていて誰もいない公園のベンチに座ることは気持ちいい。濡れていないベンチを探すのが大変だけれど。滑り台も濡れていて滑れないし、ジャングルジムもつるつるになってるから、普段見かける子供たちも遊びに来ていない。

子どもたちは凄いと思う。子供たちは叱られながらも遊び続けるから凄い。大人は臆病だなぁと思う。大人は始終誰に叱られるかビクビクしてる生き物だ。なぜこうなってしまったのだろう。私たちは大人になった後になってからわざわざ童心を持ったままの人に憧れたりする。童心というのは火のようなもので、きっと一度消えたら再びおこすのは困難なエネルギーなんだ。だからそれを保ったままでいることはある種の才能と条件が必要で、大人になっても童心を保っているという事は、暴風の中で消えない炎があることのように奇跡的な事なんだろう。

もともと持っていたものに憧れなきゃいけないなんて、変な話だね

世界に対して「変だな?」と思ったあとに、自分の好きな趣味などを通して自分の機嫌を回復するというプロセスを通れば「まぁ、こんな感じの世界でいいや~」となりますよね。梅酒が美味しいな

今日の天気は晴れでした。駅前に自転車を止められないのは不便だね。

 

 

大人の辞書

突然雨が降ってきた。最近は局所的な集中豪雨がたまにあるけど、私が子供の頃はこんなのなかった。初めて行った海外旅行で集中豪雨を見てビックリしたのを覚えている。こうした種類の降雨は予測が難しいらしく、天気予報でも晴れです!と断言しておいて、いきなり雨が降ることが増えた

人は大人になっても成長しない、慎重になるだけだ。と言ったのはシェイクスピアだったかな?年を取るにつれて自分が出会う相手への期待値みたいなのはだんだん減っていって、幼い頃の友達も、家族も、本当に気が合っていたわけじゃないことが解ってきた。でも気が合うかどうかというのはそこまで重要じゃなくて、気というのはあくまで個人性質的なオーラなわけだから。気が合わない人とも出会えたりするのがこの世界の特徴なのだから、自分のスペースをもっと広げてもいいんじゃないかなとも思えるようになってきた

雨が降れば憂鬱になると最初に言ったのは誰だろう。子供の頃、雨について抱いていた感情はけっして憂鬱なんかじゃなかった。単純に言えばそれは「楽しい憂鬱」という未知の概念で、大人の辞書にはそんな簡単な単語も載っていないのだ。今日もかたこと日本語を使いこなしているだけの私たちが、芸術作品を見て「言語に絶する」とか言っているよ。大人は、子供に笑われても仕方がないね

軽くなりたい

母の日に花束を贈りたかったけど、できなかった。花屋さんというのは不思議だ。きっといい人しかなれない。駅前にある花屋さんなんかはとくに不思議だ。電車の中で花束を持っている人がいると、おっ、と目が行く。花束を持っている人が、窓の外に目を向けていたりすると電車の中が監獄に見てくる。世界に人工物なんていらないよ

なぜ光を食べていきていけないのだろう。私も理想の世界の中で絵を食べて生きたかった。一日が朝と昼と夜に分かれていること自体はいい。人が男と女に分かれていることも別にいい。でも、物。人工物。なんでこんなものがあるんだ。おまけに機械、AI。なんだそれ。この世界は硬いし重いし複雑だ。そんなもの、いりますか?

正直早く肉体を脱ぎたい気もするけど、生まれてきたことにも訳があるんだろうな。一生文句だけを言っていたい気もするけど、この世界を好きにならなくちゃ始まらないものがあるのだろう。宿題っていう概念はきっと罠。自分にとってもっと大きな好き・嫌いを探そう

 

夢はなんですか

私の夢にはいつも格子がはまっている気がする。もともと成りたいものなんかなくって「夢はなんですか?」と聞かれるのが嫌いな子供だったんだけれど、大人になるにつれて、そうかこの世界は成りたいものになってもいいんだ!というか、それしかやることがないんだ!と徐々にわかるようになり、今では他人が「私の夢は〇〇です」と語るのを違和感なく聞けるようになってきた。ほかに自分自身の役立て方がないもの。何に躓いていたのだろうと今では思うけれど。同時に、夢をかなえたい!と思ったときに何かの罠にガッシャーンとハマる気がして、今でも違和感がのどに使えている

夢、とは古来どんな言葉だったのだろう。いつの間に空想と同義になったんだろう。思った瞬間にすぐ叶うものじゃないと、そもそも夢とは呼べないんじゃないだろうか。夢とはもっと天国的でマジックマッシュルーム的なふりかけであるはずだ。努力して他人より秀でて自信をもってプロになることがなぜ夢などと呼ばれるのだろう。そんな乾いたものじゃない。夢を本来の夢にしたい、それが私の夢なのかもしれない